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自己愛こそがすべてだとしたら…それも悪くない

Posted on December 16th, 2013

天才とはなにか?一知半解が露わになるのを怖れずに言うなら、なんだか知らんが小さな努力で大きな結果を得ることのできる脳みそを持つ人間のことだ。反論は許さない…というよりむしろ反論はナンセンスだ。錆び付いただけのネジなら頭を叩けば回せもするが、私のネジは錆びのみでできている。槌で叩けば砂塵に帰す。
そもそも、凡人サンプルとも言うべき、「絵に描いた凡人」たる私が言うことである。反証して頂いたところで、それをそれと解するほどの脳みそが私にはない。
したがって、黙ってこの先を読み進めるか、さっさと読み飛ばすかどちらかにして欲しい。

脳みそ…入力された情報群を処理して、出力として異なる(進化した/退行した)答えを出すための、入力と出力の間に位置する処理機関である。(ここで「スケトウダラの白子のような…あのブツ…を指しているのではなく、概念としての脳みその話だ」…などと冗長に言いたがるのも、私の脳みそが凡庸な証左である)

偶さかみつけた少しの知識の切れ端を、己が発明発見に取り違えて、ご機嫌にスキップを披露するほどの脳天気。
果ては、その『偶さか』を『必然必至なルールに基づいた自らの能力の証』であるかのような妄想的自己愛に囚われて信じ込む。

自己愛…自分を愛さずに誰を愛せるというのだ…わかったように聞こえる物言いで、端(はな)からシニカルなニヒリストを気取り言を続けよう。

「人は自分を愛すること」のみをエネルギーの源として生きていく生き物である。

女性が言う「優しい人が好き」の『優しい人』とは「自分を認めてくれる人」である。
我が子ができて子供嫌いが直った気になる勘違いも、その小猿のようなシワクチャの顔に、自分を見つけるからである。

自分を愛することそれ自体をどうこう言いたいのではない。自分を愛する故に自らの中に自然発生的に最初に湧き起こる「自己愛の力学」に知らんフリして、なんとなくのボンヤリした思い込みを、髪の毛一本の疑いもなく信じ込むというのは恥ずかしくはないのか…と言っているのである。

床の間の掛け軸に書いた未来永劫変わることのない宇宙の真理のように思っている君の中のその真実が、自己愛で汚れているとしたら震えないか?

もし君が嫌煙論者なのであれば、自分を疑ってみて欲しい。タバコが身体に良くないことが真実でも、愛煙家が悪なのではない。
もし君が愛煙家なのであれば、自分を疑ってみて欲しい。君は、タバコを愛しているのではなく、タバコを吸うときの安らかなあのひとときの自分が好きなだけなのだ。自分や他人の健康よりも。

自己愛の他所に、なにかルールや真理めいた美しい法則が原始の掟のように先に在って、世の中はすべてその法則に従って回っていると決めつけていないだろうか。真ん中にあるその法則は見つけ出せる類の真実であり、人は古来ずっと、その真実の周りで湖畔を周回するミツバチのようにグルグル回っているが、いずれその法則はだれかが必ず見つけ出せるのだと…そんな妄想に皆で囚われていないだろうか。

全ての尺度の基本となり、それさえ知れば、善悪・優劣・老若・男女・高低・軽重…すべての判断が可能になる…そんな『メートル原器』のような普遍的真実…それが何かはわからないけれど、それがあることだけは誰もが信じている…そんな気になってはいるが、よくよく考えてもみたまえ。だれかとその存在を確認し合ったことがあるのか?
まるで、見てもいないものを見てきたかのように終生「あの世」の話をしながらあの世に行ったGメンの親分の話のように滑稽だ。

締め付け固定工具のような名前の大阪の女流マンガ家集団の作品の台詞で「世の中に偶然なんてないわ。あるのは必然だけ。」というのがあるが、こう仮定してみて欲しい。

実は世の中に必然なんてない。あるのは偶然だけ。
あえて言うなら、自己愛だけが、産まれた途端にそこに在るものすべてだと付け加えよう。

どうだろう。すべての強欲や無欲・あらゆる慈善と略奪…それらの一見相容れないカップルが据わりよく仲睦まじく暮らしている桃源郷が見えはしないだろうか。

様子の良い人

Posted on September 9th, 2013

子供の頃、親戚中で一等好きだったおじさんがいる。正巳おんちゃん。

なんでそんなにも好きだったか…といえば…お年玉の桁が違ったから。

桁が違ったというのは言い過ぎか…。

でも、ふつう2-3,000円しか貰えない時代に、正巳おんちゃんは、10,000 円もくれた。

高額なお年玉をくれる正巳おんちゃんに対する僕の評価は「良いおんちゃん」であったが、まあよくよく考えれば、「自分にとって、都合が良い」という実に身勝手な評価であることは間違いない。

僕に限らず、人は己にとって都合の良い人を「良い人」と言う場面が多い。

逆に自分には別段メリットや利益はないけれど、それでも『良い人』と言いたくなるのはどんな人だろう。

『様子の良い人』という言葉がある。

いつも笑顔が自然で美しかったり、いつもどことなく品があったり、いつも上等ではなくてもこぎれいな格好をしていたり…そんな人をそう呼ぶ。

ところが、それらの全てであったり、それらの一部であったり、それらと縁のない人でも、様子の良い人はいる。

つまり、そんな言葉で定義しづらいのが様子の良い人なのである。

感じが良い…に近いが、感じが良いというのは、どことなく上から目線である。

気さくな人…にも近いような気がするが、気さくなというとなにやらバカっぽい。

上品な人…はたしかに様子が良いが、上品という言葉自体がまた定義しにくい。

とかくこうした説明しにくい日本語は、衰退の途をたどることが多い。

なくなったところで、「これこれこういう意味」と明確に説明できる言葉であれば、蘇生も可能なのだろうが、「説明しづらい」というのが、なくなっていくまでの主たる事情だったりすると、なくなってしまった後では、蘇りようがない。

脱線したけれど、『様子の良い人』は「自分にとっての都合」とは関係なしに「良い人」と評される人の代表例なのかもしれない。

自分と相手との関わりの都合によらず、その人がそこにいるだけで「良い人」にもっと注目してもいいんじゃあるまいか。

まずは、様子の良い人を身の回りから探して、「様子が良いね」と笑ってみることから始めるか。


bison

ICT Consultant, Solutions Developer, StudioBISON