子供の頃、親戚中で一等好きだったおじさんがいる。正巳おんちゃん。

なんでそんなにも好きだったか…といえば…お年玉の桁が違ったから。

桁が違ったというのは言い過ぎか…。

でも、ふつう2-3,000円しか貰えない時代に、正巳おんちゃんは、10,000 円もくれた。

高額なお年玉をくれる正巳おんちゃんに対する僕の評価は「良いおんちゃん」であったが、まあよくよく考えれば、「自分にとって、都合が良い」という実に身勝手な評価であることは間違いない。

僕に限らず、人は己にとって都合の良い人を「良い人」と言う場面が多い。

逆に自分には別段メリットや利益はないけれど、それでも『良い人』と言いたくなるのはどんな人だろう。

『様子の良い人』という言葉がある。

いつも笑顔が自然で美しかったり、いつもどことなく品があったり、いつも上等ではなくてもこぎれいな格好をしていたり…そんな人をそう呼ぶ。

ところが、それらの全てであったり、それらの一部であったり、それらと縁のない人でも、様子の良い人はいる。

つまり、そんな言葉で定義しづらいのが様子の良い人なのである。

感じが良い…に近いが、感じが良いというのは、どことなく上から目線である。

気さくな人…にも近いような気がするが、気さくなというとなにやらバカっぽい。

上品な人…はたしかに様子が良いが、上品という言葉自体がまた定義しにくい。

とかくこうした説明しにくい日本語は、衰退の途をたどることが多い。

なくなったところで、「これこれこういう意味」と明確に説明できる言葉であれば、蘇生も可能なのだろうが、「説明しづらい」というのが、なくなっていくまでの主たる事情だったりすると、なくなってしまった後では、蘇りようがない。

脱線したけれど、『様子の良い人』は「自分にとっての都合」とは関係なしに「良い人」と評される人の代表例なのかもしれない。

自分と相手との関わりの都合によらず、その人がそこにいるだけで「良い人」にもっと注目してもいいんじゃあるまいか。

まずは、様子の良い人を身の回りから探して、「様子が良いね」と笑ってみることから始めるか。