職場の冷蔵庫で写真をとる阿呆を袋だたきにする阿呆
見ず知らずの他人が冷蔵庫で写真を撮ったこと
= 悪行 + メディアリテラシー欠如 -> 「許すまじ!」
…だけれど、友人が同じ事をすれば -> 「しょーがねーなw」
「見ず知らずの他人」の「たった一つの悪行や反道徳的行為」をもって、「その人の人間性を決めつける」というのは、結果『誤解』である場合が多い。
我々は実は、そのことを理解している。
そういう決めつけに『陥りやすいのが人間』ということも知っている。
そうした意味で、「見ず知らずの他人」の「自分に直接の不利益のない行動」をことさらに論い叩くという行為自体が実は「はしたない」行為なのである。
それは「反道徳的」とまでは言えないかも知れないが、見ず知らずの人が行った行為と同様に、褒められた行為ではない。
しかし一方、「はしたない行為」は「公の場」で行えば咎められるべきであっても、ときとして、『お茶の間』であれば許される。
Twitter という場を『準:お茶の間』と捉えるのは是か非か。
仮に『是』とするなら『準お茶の間』の「はしたない行為」は悪いことではないという理屈になる。
Twitter の『公の場』としての側面を重視するなら、彼のした行為は大きく道を踏み外していることになるが、同じくTwitter という公の場でそれを論う行為も同様に非難されて然るべき反道徳的行為になりはしないだろうか?
あかの他人のメディアリテラシーに欠けた反道徳的行為 を「許せない!」と、(同じく)Twitter上で叫び袋だたきにすること自体もまた「はしたない行為」ではないのか?
反道徳的行為を行った人の身近にいる彼や直接の被害・不利益を被った人は、その反道徳的行為に憤り、それを糺そうと彼を叱る…というのは当たり前である。
しかし、彼や彼の行為との距離が遠いあかの他人の立場では、抱いた憤りをコントロールする方が上品であり道徳的である。
となれば、踊る阿呆と見る阿呆、どちらも、いわゆる阿呆の血のしからしむるところと言うところか。
(かく言う僕も、有頂天家族の台詞が言いたかっただけ…な阿呆である)