情報って『後払い』が正しくね?
Facebook とかやってると、「おもしろそう」とか「ん?どゆこと?」「先が読みたい!」とか思っても、どっかの Facebook ページに「いいね!」しないと、その先を読むことができないポスト…とかあるじゃない?
朝日新聞とかのサイトでも「こんなことがありましたぜ!だんな!」みたいな見出しで、冒頭のちょこちょこした『(誤用の方の)さわり』しか読めなくて、その先を読みたいなら、メアドとかの個人情報晒して登録すれば、一日3つまで…イヤならカネ払え!…みたいなのも似た「ガッカリ感」を憶える。
そういう『出し惜しみ』されて、あげく「囲い込まれる」感じって、すごくガッカリする。
「疲れる」と言い換えてもいい。
シェアとか購読とか、してもしなくてもどっちでもいいよー…という前提じゃないと、そこんちに信頼なんて置けない。
だからといって、情報をタダで入手したい…情報なんてタダが当たり前だろ?…と言いたいわけじゃない。
『上質な情報』には「対価」を支払うべきだと思う。
でも、「上質な情報か否か」は、受け取る側が決めるべきだと思うの。
つまりは、『後払い』が正しい。
「お金」だけが『対価』じゃないと思う。
「いいね!」でも、RTでも、シェアでも「対価」に違いはないし…
その情報を(出典を詳らかにした上で)さらに整理して、自分の知っている(調べた)別の情報を付加して、考察した新たな情報…でもいいだろうし…
そう。「お金を払えとは言わないから、いいね!して下さい」という考えは根本が間違っている。お金も手間も新たな別の情報も「対価」にかわりはないんだから。
- ちゃんと全部丸ごと読めること(後払いであること)
- お金だけが対価じゃないと定義すること
- 囲い込もうとしないこと
このみっつを情報提供側も享受側も共通認識にすれば、もっと有機的に面白い化学反応が期待できる希ガス。